私はスキをあきらめない。透明な嵐に負けない美意識が鍛える人間らしさ

Yuki Shichiku
8 min readJul 24, 2019

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最近福岡市美術館でやっていた「エリートが美意識を鍛えるのはなぜ」みたいなイベントに行って、昔から思っていたモヤモヤした感情を、うまく言語化して1冊の本にして話をしていたのを聞いてめちゃくちゃ共感したのでここに書いておく。

話を聴きながらメモした内容に沿ってざっくり話していくと、まずはビジネスにおける真善美についての話だ。

ビジネスにおける真善美

世の中のビジネスというかすべてのものにおいて、「問題」と「正解」がある。で、この問題と正解の関係上、昨今の日本の教育では正解を隠して、問題を通してとにかく正しい正解を導き出す、という教育がなされている。ベトナム・フィリピンみたいなそもそもそれができる人が少ない世の中ではそれで十分だと思うが、日本みたいな色々充実した国においてそれしかしていないことによる弊害が起きている。それは正解を出す前にそもそもの問題提起をするのが苦手という弊害だ。

ビジネスにおける真善美の話では、Science、Art、Craft の3つの視点と、真善美についての3つの関係について話していた。注目すべきは正解を出そうと科学を突き詰めることで、最適解を出すことはできるがそれが美しいのかどうかという点だ。例に出ていたのは電柱と電線が空を覆い、景観を崩しているという話で、電気を効率よく全世帯に届けるためには電線はとても良いアイデアで現に日本の色んな家庭はそれに助けられている。しかしそれが十分に行き渡った後、空は電線に覆い尽くされ、景観が悪くなってしまっている。(個人的には電線は電線でノスタルジックなので好きだ。lainが好きな人とか分かると思う)もう一つわかりやすかった例はガラケーとiPhoneの誕生の話だ。日本人がガラケーとまで呼ばれた音が4和音から16和音になったり、カメラの画素数がとにかく良くなっていったり、技術オリエンテッドに謎の戦いをしているうちに、「電話は1機能に落とし込んでアプリとして捉えて、携帯電話はもっと別のデザインにすべき」という問題提起から生まれたiPhoneが市場を全てかっさらっていった。

こんな感じでデザインの勝利というよりも、「人間ってこの方が気持ちよく、素直に、直感的に、好きだから使うよね」という感覚でものづくりされたものが選ばれるといった事例が増えて来ているという話だったし、実際そう思う。正解不正解を突き詰めるより、「好き嫌い」で考えたものが選ばれているという話だ。

最近見たアニメで「キャロル&チューズデー」というアニメがあった。とても面白くて心に残る素晴らしい作品だったのだが、作中で有名プロデューサーの作曲フローがとても興味深くて、人間の過去の歴史から生まれたヒット曲などのデータをもとに作った「ヒット曲絶対に作るAI」みたいなものが出てきて、確かにめちゃくちゃいい曲だしみんな共感する良いものが出来上がるんだけど、主人公のキャロルとチューズデーの二人が自ら手で作曲した楽曲がそれを凌駕したという内容だった。何が言いたいかというと、この話は AI vs 人間みたいなところに通じていて、人間がAIに勝つ(というか戦ってるのもおかしいけど)には最後の人間らしい好き嫌いをどれだけ集め、共感を産めるかというところに尽きるなと思ったのである。

人はストーリーや意義に対してとても良い印象を持つ生き物なのだなと思う。そのAIが努力なしに作られたものではないにしても、血の通っていないフローに人は感動しなかったりする。僕が昔行ったウイスキーの白州の工場見学はとても楽しくて、「天使のひとしずく」みたいなエモい話を聴きながら進み、最後にサービスでもらえる白州飲み比べセットがえらくおいしく感じてしまう。手間暇かけて作られたストーリーのあるプロダクトに人は感動する。そこには創業者の好き嫌いがハッキリ現れていて、こだわりを感じてしまう。この人がそんなに好きだっていうなら飲んでみよう。そういう気持ちにさせてくれる。

ウイスキーの話は個人的に思ったことだが、イベントでは車は乗れれば「役に立つ」が、個人にとっての「意味」があれば売れるという話があった。安価な大型車は確かに便利でなんの問題もないが、テスラみたいな色んなストーリーのある高級車は役に立つ上に買う人に意味を持たせるというところで色が着く。車好きな人に怒られそうだけど、フェラーリみたいな燃費の悪い高コストな車ですら、買う人が毎度意味を持って新車が出るたびに乗り換えるという事をしてしまうほどに売れてしまう。逆に役に立たないものは売れないし、意味がないものは見向きもされない。

役に立つというのは「文明」が進化することで技術の進歩によって良くなっていくが、意味があるというのは「文化」が育っているという事になる。タバコはコンビニに200銘柄ほどあって、最近ではTwitterなどで店員なら銘柄覚えろよ→無理だよみたいな喧嘩が起こるほどたくさんある。ただ、タバコを吸っている友達に「なんでそれ吸ってるの?」と聞くと大体なんかしら理由があったりする。それがブランドなのか成分なのかは人それぞれだろうが、iQOSとか吸う人も増えてきたけど、まだ吸ってる人は体に悪いし役に立たないけど喫煙者にとってはやっぱり意味がある。逆にコンビニにハサミは1,2種類あれば十分だというのも面白い。ハサミは切れればいいから意味を見出す人がなかなか居ないので、種類が少ないということだ。

ここで日本の教育の話しに戻ると、日本では「役に立つ、便利にする」というのが得意な気がする。しかしここで危惧すべきなのは、安価で役に立って意味がないものをたくさん作るのでコンビニのハサミの様に選ばれなくなるのではないかということだ。過剰に供給されたものは飽きられ、意味を持った希少価値のあるものが選ばれていく。日本において、現代社会において、正解を追い求めたモノよりも意味やストーリーをもたせたモノが選ばれて行くのではないか。

現代という社会の特徴

面白い話だったのが、今世界のエグゼクティブの間でMBA取得者が減っているということだ。代わりに何が選ばれているかというと、美術系大学院に行く人が増えているそうだ。幹部育成が変わってきており、市場の心を動かせて、トキメキを作れるかが大事という価値観に変わってきている。アートな感性がビジネスパーソンに求められているのだ。

原研哉さんの本が引用されていて、「センスの悪い国で、緻密なマーケティングをやればセンスの悪い商品が作られ、それがその国では売れるという。センスのいい国でマーケティングを行えば、センスの良い商品が作られ、その国ではよく売れる。じゃあそのセンスの悪い国にセンスの良い国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、他所から来た商品に欲望を抱く。しかしこの逆は起こらない」という。要はセンスの良し悪しは、マーケティングの成果を超えて人々を行動させる。マーケティングの終焉とも言える。

「私はスキをあきらめない」とは僕の大好きなアニメ「ユリ熊嵐」の一言だが、とってもいい言葉だと思う。透明な嵐という同調圧力に負けず、スキを貫き通すという意味だ。モノが悪いとマーケティングをしても売れない。自分が欲しいと思うものがない。新しい世界の定番を創る。そういったプロセスを経てできた「Apple社屋に採用されたマルニ木工のチェア」や「バルミューダのトースター」が世の中に選ばれている。Science でビジネスが伸びたのは昭和・平成まで。令和からはアートでみんなが良いと思う方向に世の中を良くするしかないのだ。成り上がりを目指したヒップホップな精神はいつしか富を得て満腹になる。満腹になった精神は今度はロックを欲し、成り上がりの終焉とともに捨てていく時代がやってくるのだ。欲望を手放すな。

P.S. この話は以下の本の内容に紫竹が思った解釈を加えたものです。

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」

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Yuki Shichiku

紫竹佑騎と申します。しちくゆうきと読みます。79と表記したりします。